大安吉日ノーテンキ

Archives for 2006年 03月

2006-03-26 日

シコリ

わがママで我侭のトラうさぎが大変だ。

お腹にシコリがあると言う。春のお彼岸が近い晩、実家に電話を入れると「心配させちゃいけないから、結果が出てから言おうと思ったんだけど…」と、普段よりかなり低いトーンで母が話し出した。「前から気になってたじゃないサ」って、こちらは全く聞いてなかったが、10年以上も前から腿の付け根辺りにシコリがあり、そこが時々「シーンとする」んだそうだ。「しくしく?」「ううん」。「鈍痛?」「ううん」。「シーンとする」のだそうだ。

兎に角、そんな状態で放っておいたシコリが、最近急に気になりだしたらしい。そこで実家の近くの病院へ行ってみたところ、専門外なのでと紹介状を渡され、お江戸の大学病院に行くように薦められたと言う。お江戸在住のこの私、お江戸の病院と聞いた日にゃぁ豚弟や義妹にばかりに任せておくのは、長子根性が許さない。「じゃぁ私が連れて行くよ、いつ?」と聞くと「明日」との返事。「あしたぁ?」こりゃ又急なことで。でも、他の事とは違うのだから当日の電話連絡でも会社は休ませてくれるだろう。「本当は20日の予約なんだけど、その日はお彼岸だし、明日なら清子さんが行ってくれるって言うから、明日2人で行って来るよ」。予約した日に行くべきだとは思ったものの、本人が明日と言い、義妹が連れていくというのなら、ここで天使の義姉が口出しして「姉姑の鬼千匹」と言われるのは本意ではない。おとなしく、結果が出るのを待ちましょう。

ところが翌日の早朝、枕元に置いておいた携帯電話が賑やかに鳴り出した。出るなり「20日なら休める?」。いっくら母娘でも早朝にたたき起こしたら「前略」くらいつけなさい。「やっぱり、予約した日に行った方がいいよね。昨日、一晩寝ないで考えちゃったよ」。だからって早朝に叩き起こすんじゃない。しかし、ここは了解するしかありません。出社早々、トイメンの上司に休日願いを口頭ですると「今日は随分と早い出社でしたね」と言われた。はいはい、起床ラッパに起こされてそのまま出社して参りました。

さて、有給休暇が取れたからと20日にお江戸で母が来るのを待って病院に連れて行けばそれで良い、はずはなく、18日の土曜日に義妹にお義理でも「この度はお世話をかけています」と手土産なんぞを持って実家に帰る。その夜は母から今までの経緯をレクチャーされ、翌日はお彼岸でもありますので父の墓前に額づいて「煩くてしょうがないでしょうから、まだトラうさぎを迎えに来ないように」と、念を入れる。父も「こっちに来て、やっと静かに暮らしているのだから、誰が呼ぶか」と、苦笑しながら答えた気がする。 その足で最寄の駅に行き、いざお江戸へと思ったら「強風のためJRは上下線とも運転を見合わせております」。では、おあつらえ向きに18日に線が延びて始発となった半蔵門線直通という東武鉄道に乗ってみますか。やはり始発は快適です。ホームの吹きっさらしで震えて待っていなくて良い。暖かい車両に入り好きな場所に座れます。

さて翌朝はいよいよ、お江戸の大学病院詣で。新宿駅から、その名も大江戸線に乗り換えてと時刻表も地図もしっかりチェック。ところが、新宿駅に着くなり「規定料金で行けるからタクシーで行こうヨ」と、トラうさぎはのたまう。どこで調べたのかなと思いながらも、お初の場所故、タクシーで行く方が楽に決まっているから仰せの通りにする。けれども、どこが規定料金だ。1960円也を支払わせられ、挙句に病院と目と鼻の先にある地下鉄大江戸線の駅を見つけては「こんなに近くに地下鉄の駅があったのに、もったいない」のお言葉を頂戴したのだった。取敢えずは病人予備軍であるから、今日のところは黙っていよう。

さて、受付を済ませ待合室の椅子で待つことしばし。「トイレ行ってくるから」って、予約の時間だよぉ。やっぱり呼ばれてしまった。2人分の荷物を持って慌てている所にトラうさぎが余裕で帰って来る。「案外、早かったね」。

指示された診療室に入ると、気の良さそうなお兄ちゃん医師が「どうしたのかな?」と気さくに聞いてくる。母の説明はアッチに行ったりコッチに来たりとらちが明かない。私がシコリの話をすると「どの辺かなぁ」と触診がはじまるが、あまりに分厚い肉襦袢にお兄ちゃん医師もびっくり「これは脂肪だよね、アレこっちも脂肪だ。あ、これかな?」。やはり、普段から節制は必要なようだ。やっとこ母の気にしているシコリに行き当たったが「これは持ってきてもらったCTだけでは分からないからレントゲンを撮ってきてね」と言われ退室。レントゲンの受付をして再度待機。するとトラうさぎ、又もや「トイレ」。そして又もや留守中に呼び出し。今度はレントゲン技師に「暫し待たれい」と言って、バッグだけ2ツ抱えてトイレへ向かう。鏡の前で優雅に髪を梳くトラうさぎ発見。もぉ、お願いしますよぉ。そして出てきた言葉は又もや「案外、早かったね」。

やっとこ本格的な診察だが、待合室で待つこと1時間。やっとこ呼ばれて入った診察室には、先ほどのお兄ちゃん先生より大分年輩と見受けられる医師がドッシリと座っていた。しかし、「残念乍ら専門医が辞めてしまいまして、今はこの病院では診られない分野のようです。紹介状はどの病院へでも書きますから考えてみて下さい」だって。ああ、わざわざお江戸まで上がって来たのに、母のシコリは門前払いの憂き目となってしまった。「即入院とか即手術と言われなかったんだから、どうってこと無いシコリなのよ」と言う娘の言葉が慰めになったかなぁ。

しかし、病院前の地下鉄から御徒町に行けるということが分かると「御徒町ならアメ横でしょ」「アメ横なんて何年行ってないかねぇ」と、即出発。アメ横に着いた途端、生鮮食品の安さに気を取られ、すっかり先ほどのショックは癒えてしまったらしい。「大学病院にまで見放されたら、どしたらいいのよ」なんてしょ気ていたのは何分前?「干し芋、1袋250円を3袋で500円」から始まり、干し海老、烏賊の口、裂きイカ、ひまわりの種、アーモンド…1袋500円を3袋で1000円なんて言われると片っ端から買いまくる。「果物は要らない?」って、とんでもないことで御座います。もう、これ以上は抱えられません。それにしても、シコリだかなんだか知らないけれどトラうさぎ恐るべし。絶対に貴女の方が、娘の私より長生きしますって。

2006-03-19 日

ぷよぷよ

エッ、もうこんな時間?! お風呂に入ろうと、時計に目をやって驚いた。なんと午前2時30分になっているではないの。今となっては昨日の晩、午後11時には(そろそろお風呂に入りましょう)と心積もりしていたのに…。

原因は“ぷよぷよ”だ。私のお腹のことではない。パソコンで見つけた、落ちてくる2色のボールを積み上げては消して行くゲームの名前だ。同じ色が4個繋がるとそのボールが「ぷよぉ」と言いながらパッと消える。いかにして画面の中にボールを残さずにおくかが重要なのだが、4個がなかなか繋がらずアタフタしていると、アッという間にボールが頂上まで高く積みあがり「ゲーム・オーバー!」。「トライ・アゲン?」すかさず機械音が聞いてくる。「もちろん」と、「トライ・アゲン?」の言葉が終わらないうちにplayボタンを押す。ボタンを押すのが「トライ・アゲン?」の“?”から“ン”になり“ア”になり、しまいには「ゲーム・オーバー!」の言葉も終わらないうちに「まだまだ辞められるか!!」と次のplayにトライする。そんなことを繰り返していたら丑の刻となっていたというわけだ。

目は疲れるし、肩は凝る。ヒジも痛むし、腰もはる。なのに始めたら最後、なかなか辞められない。これは一体なぜ? 自分に問うてみた。もちろん「ゲームにはまり易い怠惰な性格」というのが大きな原因だとは思うのだが、もう1ツ要因が浮かんできた。一人ぽっちの部屋での暖かい団欒への郷愁だ。(ウウ、涙)

姪達が幼い頃、ファミコンが大ブームだった。私が実家に帰る度に新しいゲームが増え、その都度“お手合わせ”をさせていただいた。最初はご存知「スーパーマリオ・ゲーム」。私がやると、いっつも同じ所でマリオが崖から落ちる。崖を跳び越えさせるためにボタンを押すたび、自分の体まで浮き沈みし姪達に笑われながら、その動作の真似をされたものだ。初めてステージ1を最期まで無事進み、マリオが旗を挙げるポールに飛びつき、花火が上がった時は嬉しかった。「やったね! チャーちゃん(私です)よく頑張ったネ」なんて、姪達に拍手までされた。一体どっちが大人だ?!

私が、やっとこ1面をクリアして喜んでいる頃、姪達の繰るマリオは地下にもぐって火の玉を避けたり、空を舞ってシーソーのような板に乗ったり、あるいは水底を泳いだり、そうそうカメを蹴飛ばしたりもしていたなぁ。1面から先に進まない私には、到底見ることのできない様々なキャラクターを次々出していく、小さな指の動きを不思議な生き物でも見る気分で横目で見ていたものだ。

マリオや弟のルイージ、キノコ王国のピーチ姫、今人気の‘ドコモだけ’に似たキノピオ…色々なキャラクターが揃ってのゴーカート・ゲーム、マリオ・カートもあった。二人の姪と、その親である豚弟と一緒に「スタート!!」。ところがなぜか私のカートはコースをそれるだけでなく、その場でグルグル回ったかと思うと、やおら逆方向に走り出したり、とにかくいっつもダントツのビリ。そんな時、豚弟は「グハハ」と笑っているだけだが、姪達は「大丈夫だよ、次はちゃんと走れるよ」と、伯母様を優しくフォローしてくれるのだった。最後には周回遅れの私のカートを見て、豚弟以上にお腹を抱えて笑っていたけどね。

婆バカが孫達のためにイトーヨーカドーで、並んで買ってやった“たまごっち”も、二人はそれぞれに育てていた。「1日だけ」という約束で貸してはくれたが、マットウに育てられない自分を恥じず“幼児虐待”をしかねない伯母に呆れ、たまごっちは全く成長しないままに、即取り上げられてしまったっけ。そう言えば、誕生日に二人が贈ってくれた、卵の中から芽が出て咲くはずの花も、卵のままで腐敗臭を撒き散らし出し、処分の憂き目となってしまったのだった。姪達よ、卵アレルギー(?)の伯母を許せ。

ところで、様々なテレビ・ゲームを体験させてもらって1番はまったのが“ぷよぷよ”だった。このゲームは2人で同時にそれぞれの面を始めることができる。そして上手にボールを消す都度、対戦相手の画面に石つぶてをお見舞いすることができるのだ。姪達、とくに姉の方は小学生だったのにやたらと強かった。何しろ機械に強いはずの豚弟をも負かすことが度々だったのだから。そんななので、拝み倒して私のレベルは1番下に、彼女のレベルは最高値に設定してもらうのだが、どうしても勝てない。毎度毎度の石つぶてにまるで自分がタンコブを作りながら、埋まっていくような錯覚を覚えたものだ。

そして現在、すっかり成長してしまった姪達は、この伯母さまが実家に帰っても以前のようにまとわりついてくることはない。まして一緒にテレビ・ゲームに興じるということはない。「また勝っちゃったぁ。チャーちゃん(私です)弱いなぁ」と、私を負かせてキャッ、キャッと笑うあの声も帰って来ないのね。なんてオセンチしていた時に、インターネットの中に見つけたのがこの“ぷよぷよ”ゲームだったというわけだ。実家でのファミコンは、自分でテレビにセットする方法も分からなかったし「目に悪いから、もう今日はおしまい」なんて義妹が言うのを、伯母様としては(まだイイジャン!)という思いを隠して、姪達の手前、素直に従わざるを得なかったりしたが、自分のパソコンで遊ぶ分には簡単に始めて、いつまでだってやっていられる。そんなわけで、今は帰らぬあの頃の団欒を懐かしみながら伯母さまは今夜も一人“ぷよぷよ”にはまっているのだった。それでもきっと、今対戦しても、やっぱり姪達に負けるんだろうなぁ。

「山の手線外回りは止まっています。振り替え輸送をしていますのでご利用下さい」。

今にも雨が落ちて来そうな月曜日。ただでさえ「出社拒否症」が頭をもたげそうなこんな日に、重い体を引きずってJRは山の手線・五反田駅に着いたと思ったらこれですよ。改札前では駅員さんが、振り替え用のチケットを配っている。仕方ない、ここは都営浅草線で日本橋まで行き、東西線に乗り換えて弊社のある大手町まで向かうとするか。

都営浅草線のホームに下りると、普段のラッシュ時プラスα人がうごめいている。着いた電車は満杯。けっこう下りる人もいるけれど、同じくらい乗る人もいる。「座れないじゃん」。1台見送る。2台目も見送る。姫体質は、とてもとてもこんな混んだ電車には乗れませぬ。だっていつもは品川までの2駅、3分ほどをガマンすれば殆ど座れるし、帰りは東京駅から100%座れます。アッ、ぶたないでぇ私は女優よ(?!)。かく言う私も、実家から1時間半以上をかけて通っていた頃は、片道乗車時間17分なんて聞いた日にゃぁ、そんな楽してるヤツはぶん殴ってやるって思ったものだ。でも、長年「乗車時間17分」に慣れてしまうと、ただでさえヤワな体も心も、すっかりワヤな姫体質になってしまうのよね。ごめんあそばせ。

何気なく逆のホームを見ると、ガランガランの車両が優雅に滑り込んで来るところ。都営浅草線五反田駅、片方の終点西馬込は直ぐそこと聞いたことがある。よし、ここは“女は度胸”終点西馬込まで行き、始発西馬込で折り返そう。それならば絶対に座れると踏んだ。「さぁどこでもご自由にお座り下さい。なんなら横にでもなれますよ」ってくらいに乗客の居ない車両でノビノビと座席を確保し、まずは逆方向の西馬込を目指す。直ぐそこと聞いていたので、私は勝手に2ツ目の駅だと決め付けていた。ところが、いざ乗ってみると2ツ目の駅はとうに過ぎ、4ツ目でやっとこ終点西馬込に到着。(まったく、私の根拠の無い確信には困ったものだ)なんて自分で呆れながら、6分後の折り返し運転を待つ。日本橋方面に向かって走り出した車内はガラガラ。ところがそんな車両も五反田に着くころにはほぼ満杯、座る余地などありません。やっぱり度胸をもってトライして良かった。

JRの前身、国鉄職員の娘に生まれたせいか電車に乗っているのは好きで、どんなに長くても苦痛にはならない。ランチ仲間の智子さんのお舅さんが亡くなられ、西国分寺にある斎場でのお通夜に列席した時のことだ。往路は五反田→東京→西国分寺と、山の手線と中央線を乗り継いでスムーズに辿り着けたが、復路は果てしない旅になったことがある。斎場では同期入社の長谷川悦っちゃんが寄ってきて、お焼香から精進落としまで何くれとなく私の世話を焼いてくれた。どうも私って、姫体質がにじみ出ているらしく、何かの際には誰か彼かが現れて面倒をみてくれる。お通夜の席を後に、長谷川悦っちゃんは西国分寺の駅まで私を連れて戻ると「逆方向だわねぇ、ここで失礼するけど貴女は…アッ、あの電車よ。乗って乗って!!」と、乗車する電車まで指示してくれた、というよりお尻を押されて飛び乗らされた。確かに行き先を示す先頭車両のフロントには《東京》と書かれていた。ところがこの電車、行き先こそ確かに《東京》ではあるが、まずは新小平→新秋津と多摩を通り、東所沢→新座と進み、美郷までは埼玉県、武蔵野線という路線だ。途中では西浦和・武蔵浦和・南浦和・東浦和と、4ツも浦和を通り越した。因みに浦和と名のつく駅名は他に、中浦和・北浦和・浦和美園そして本家(?)浦和と8ツもあるのだよ。ご存知でしたか?

三郷を過ぎたら千葉県に突入。南流山→新松戸→東松戸→西船橋と来て、アララ新浦安→舞浜と京葉線に乗り入れているではないの。そして気付くと東京ディズニーランドがライトアップされ、シンデレラ城がまぁ綺麗。夕方も明るいうちに電車に乗ったはずなのに、既にしっかりと夜の帳が下りている。

東京→西国分寺。行きは30分ほどで行けた所が、帰りに飛び乗った電車では行けども行けども着かないし、埼玉の駅名や千葉の駅名が出てくる。そりゃぁ(おかしいなぁ)と思わなかったわけではない。しかし、行き先は間違いなく東京。それに途中で降りたらこの私、そこから先が分からない。乗降客の変化を楽しみ、窓の外の景色を楽しみ、電車に揺られての居眠りを楽しんでいたら長い旅も終わり、ちゃんと東京駅に帰りつくことができた。

夜の東京ディズニーランドまで見ることができたしね。案外ラッキーだったのかも知れない。なんて私は思っていたのだが、翌日、出社と同時に内線が鳴った。長谷川悦っちゃんからだった。「昨日、電車間違えて教えちゃってごめんなさい。途中で降りてくれたよねぇ」「ううん」「えっ、あのまま乗ってたの?」「だって東京行きだったもん」「……」。この事実が社内に「呆れた」という言葉を飲み込みながら広まったのは言うまでもない。

ところで、山の手線が止まっていたのは運転士が異常な横揺れを感知したからだとか。調査をすると2センチもレールが沈み込んでいる所があったのだそうだ。11万2千人もの人に影響が出たそうだ。中には大学の受験生もいたらしい。けれど、万が一の事態を想定したら命あってのものだねよねぇ。朝の短めの旅行をしてのんびりと社に着いた私には何も言えた義理ではないが。

さて、「遅くなりましたぁ」と、デスクについたとたんにトイメンに座るP氏に聞かれた。「山の手線は外回りが止まると、内回りも動かないんですか?」。オンヤ??? 私が出勤時に乗車するのは内回り。今日、止まってますってさかんに言ってたのは外回り。私は内回りの電車が止まっているところを見たのかな…イイエ、改札で早々に振り替えのチケットをもらい回れ右をして都営浅草線へ。内回りのホームにすら行ってはいないのだった。京浜線の同じ方向から来るマサちゃんからは「逆方面じゃなくて良かったですね」なんてメールが来たし、やっぱり内回りは無事だったのでしょうか。

大きな声では聞けないけれど「JRの関係者さま、山の手線内回りは平常運転だったのでしょうか?」

2006-03-05 日

じょうずなコケ方

トリノ冬季オリンピックが終わった。女子フィギュア荒川静香選手の輝く金メダル以外は、ちょっと残念な結果だったが、皆さんご苦労さまでした。眠りの浅い私は、夜中だか明け方だかに目が覚めては、枕元に置いてあるリモコンでテレビのスイッチON。開会式の日から始まり、各競技をついつい見てしまうものだから期間中は普段にも増して、眠くて眠くてたまらなかった。

でも、私にとって冬季五輪とは、なんと言っても札幌よ。ある日突然、黙ったはずのトワエモアが歌ったテーマ・ソング♪虹と雪のバラード それはそれは美しいメロディーと詩だった。ああ、頭の中を曲が巡りだして止まらない。♪君の名を呼ぶオリンピックと〜

そうそう、フィギュアスケートでは、氷の妖精ジャネット・リンなんていうアイドルも生まれたっけ。18歳の少女は、私に負けない(?)愛くるしい笑顔で、転倒しても屈せず銅メダルに輝いたのだった。1972年のことだ。

2006年、今ではアッチが痛いコッチが痛いの満身創痍。スポーツなんて見るだけとなってしまったが、あの頃は私だってスポーツ・ウーマンしてたのよね。「私をスキーに連れてって」と言えば、ほい来たと連れて行ってくれる人もいたのよね。

初めて連れて行ってもらったスキー場は栃木県は日光湯元。同級生と2台の車に分乗し、修学旅行のようなノリでいろは坂も中禅寺湖も戦場ヶ原も通り過ぎ、一面の銀世界へとたどり着いた。私はスキーの板も、靴も、ウェアは帽子に至るまで従姉に借りての参加だった。考えてみると、ゴルフの時は友達に一式借りてだったし、スケートもボウリングもマイシューズやマイボールなんて持ったことがない。飽きっぽい上に、努力や根性という言葉が「食わず嫌い」である私は、自分で用具を揃える前に「や〜めた」となってしまうのが目に見えている。まずは何事も道具から入るという人が多いが、そこまでの意気込みさえ持ち合わせていないというのが本音。そう言えば、入社早々に入った料理教室も、先輩から「一緒に入らない?」と、ほぼ強制的に誘われて入り、「料理教室、辞めたわよ。貴女の分も手続きしといたから」とのお言葉で、1月もたたずに辞めてしまったのだった。結局は洗い物担当で、1度も包丁を握らずに終わった気がする。それでも「先輩、私は続けたかったのに」などと言う気もないし、残念という思いも湧かない私なのだった。先輩はやっぱり人を見る目がある(?)

初めて立ったスキー場は聞きしに勝る風の強さだった。何しろ遥か山の上から、スキーヤーが飛んでくる。いや、これは私の思い違い。バランスを失ったスキーヤーが転がり落ちて来て、私の背中に当たったのだった。何も知らない私は強烈な洗礼を受け、度肝を抜いた。「スキー場の風は半端じゃない!!」と。

さて従姉に借りたイデタチだが、上から、ウサギさんを思わせるような白いボワの帽子。競泳用と同じような形状で、雪焼けすると顔に眼鏡型の跡がついてしまうゴーグル。上着は雪の結晶の模様を編みこんだセーターの上にモコモコのジャケット。ズボン(パンツという感覚でもない)は厚手のジャージのような素材でできた細身のもので、裾には足を通して土踏まずに渡る部分があった。靴は、現在のようにカラフルな物は無く、可愛い乙女も黒の重い皮製の物を履いていた。スキー板もモチロン重い。しかし宅配便で現地に送るなどという事は想像の外。車以外でスキー場を目指す時には、着替えや重たいスキー靴を入れたリュックを背負い、自分の背丈より遥かに長いスキー板を持って、電車に乗らなければならなかった。今は靴もスキー板も軽いし、ワックスも塗らないでOKと聞いた。隔世の感って、こういうことを言うのよね。

スキー場では、ちゃんとした教室に入ったわけでもコーチについたわけでもなく、一緒に行った連中とワイワイやりながら見よう見まねで、文字通りで体で覚えた。リフトでお山の天辺まで行く勇気はさすがに無かったので、丘の中腹に1m20cmくらいの高さで張られた、モーターで動く直径10cm程のロープにすがり付き200mくらいの所を昇っては滑り降り、登っては滑り降りを繰り返していた。ところがこのロープ、しっかり掴むにはなかなかコツがいる。最初のうちは、去って行こうとする‘おとこ’にすがり付き、蹴落とされる‘おんな’のように手ひどく振り落とされる。♪道に倒れて誰かの名を呼び続けたことがありますかぁと、中島みゆきの“わかれうた”の心境になる。それでも、何度も何度もすがりつき、どうにか丘の中腹まで振り落とされずに行くことができるようになった。これ、ロープを放すタイミングも難しかったですけどね。

中腹から滑り降りる時は、何度尻餅をついたことか。スキー上級者の同級生からは「上手なコケ方」を、いの一番に教えられた。「転ぶまいと無理すると思わぬ怪我に結びつくから」と。同級生からの貴重な教えを実感したのは何度か日光詣でをし、そろそろ違う場所も経験したいなと思い始めた頃だった。スキーの持ち主とは違う従姉が「片品に連れて行ってやる」と声をかけてくれた。声をかけてもらえば素直に従う性格ゆえ、従姉とその愉快な仲間達に加えてもらい群馬県片品村へと向かった。ボーゲンはOK、直滑降だってなかなかのものと自信を持ち始めていた時期だ。何事も、そういう時って危ないのよねぇ。初めての片品のゲレンデに出ると直ぐに、いかにも“初心者”とマークをつけたような女性が私に向かって、真正面から突っ込んで来た。危ないと思ったが、私は自分の腕を過信し「上手なコケ方」をすっかり忘れ「上手なヨケ方」をしようとした。結果は無惨。「とんでもないコケ方」をして、膝を捻挫するという憂き目にあってしまったのだ。その上、私をおぶって下山してくれた従姉の仲間にまで、途中でコケて放り投げられるというオマケまでついた。

片品の後、私はスキー道具一式を従姉に返し、以来一度もスキー場に足を運んでいない。けれども、寒さ厳しき折には膝の古傷がうずくのよね。これからの人生も下手な怪我はせぬように「上手なコケ方」を肝に銘じて生きて行くとしよう。ねぇ誰かぁ、私と一緒に上手にコケてみません?!