目に青葉の季節である。毎年、この時期になると新入社員の研修が始まり、なぜか教育担当のお鉢が回ってくる。今年は人数が少なかったので、個人的に色々お喋りする時間を持つことができた。その時、私の年齢を勝手に推測するので(もちろん実年齢よりは遥かに下に見てくれたが)「私は永遠の25歳よ」と答えておいた。すると、新人Kから「ハタチと言ったら殴るトコでしたけど、25歳ならまぁ許しましょう」とお許しを得ることができた。ン、「許しましょう?!」私が可愛いもんだから最初から舐めてるな。
実際の作業を通じての研修では、端末を使っての指導もする。部署によっては特殊な入力作業も必要で、私のような機械音痴は現在の部署での端末操作に慣れるまで、けっこうな時間を要したものだ。ところが今時の新入社員ときたら、子供の頃からテレビゲームが有った世代。キーボードの扱いなんてお手の物、ちょっとコツを掴むと私など思いもつかない技を繰り出し、こちらが「ねぇねぇ、今どうやったの?」と、教えを乞うてしまう始末。我ながら情けなかぁ。
パソコンが無い世界なんて考えられないという新人に、「“先輩達”の時代はワープロも無かったと聞くよ“先輩達”の時代はね」と、ウケを狙って話したら「そりゃぁ、凄い時代ですね。姫宮さん、そんな時代に入社してなくて良かったですね」と、真顔で答えられてしまった。本当のことを話したら、彼らには生きた化石でも見るような目で見られてしまうのだろうか。因みにこの話を、ほぼ一回り年下のリカコにしたら「私の入社したての頃だって、まだ仮名タイプが幅を効かせてましたよ」との返事をもらい、ひとまずホッ。そうよね、オフィスのコンピュータ化はここに来ての急激な進歩よね。
そんな新人達と、昼休みはさすがに別。同僚とランチをしていると、定年退職の後に請われて嘱託勤務をされている大先輩が同じテーブルにやって来た。ああ、口にされる話題の懐かしさよ。「この社屋は昭和39年の東京オリンピックが開催された年に、大蔵省の跡地に建てられたものなんだよ。まだ回りは草ぼうぼうだったねぇ」。「屋上から見た首都高なんてガラガラで、ビルの前から自家用車で首都高に乗り、新宿まで走るというのがその頃の憧れのデート・コースさ」。ほんわかとしてくるなぁ。新宿に着いて、ジャズが好きな人は“アシベ”という名のジャズ喫茶へ、童謡・唱歌・ロシア民謡・労働歌を歌いたかったら“歌声喫茶ともしび”へと分かれるのだそうな。アシベはACBと書いてアシベと読ませた。発祥は銀座だったんじゃなかろうか。戦後すぐのジャズブームの際に生まれ、そのままロカビリー・ブーム、GSブームと、洋楽指向の日本のバンドの最前線の現場として受け継がれていったらしい。残念ながらACBには足を踏み入れたことは無かったが、銀座の“銀巴里”という、シャンソンを聞かせる喫茶店では、小海智子さんの歌声に聞きほれながらコーヒーを飲んだ記憶がある。テレビ番組『オーラの泉』に黄色い髪でご登場の美輪明宏さんも、丸山明宏と名乗り黒髪で出演されていた頃だ。
デザートをご馳走してくれるという大先輩に従って、近くの喫茶店へ。そこでもイニシエの話はまだまだ続く。「初めて不二家のショート・ケーキを食べた時はビックリしたなぁ。こんなに美味いケーキがあるのかと思ったもんだよ。有名パテシエが作ったとか、手の込んだ新しいのが出てきても、ケーキと言ったら俺の頭の中には、今でも不二家のショート・ケーキしか無いんだよね」。
クリスマスには、パーティー券というのを買ってクラブに行く。「三角帽子と鼻のついた玩具の眼鏡とクラッカーを渡されるんだ」。シャンパンを飲んでクラッカーを鳴らし、良い心持になり銀座の不二家でケーキを買って家路に着く。「4丁目の通りを三角帽子をかぶり、鼻眼鏡をかけ、ケーキを手にしたオジサン達が知らない同士で口々に、メリー・クリスマスと言いながら、ひしめき合っていたものだよ。今より、ずっと貧しくて物も無い時代だったけど楽しかったなぁ」。まるで、映画『3丁目の夕日』の一場面を見るような話だ。“あの頃”は、皆が同じ流行歌を歌い、同じスターに憧れ、同じ方向を向き夢を見ていた。そして同じ思い出を作っていったということですよね、大先輩殿。たった1時間で、21世紀から昭和の高度成長期に、そして自分が新入社員だった頃へと、タイムスリップした思いだった。
昼休みも終わり席に戻れば、先ほどの“大先輩”の孫と言ってもいいような新人君達がお行儀良く待っている。彼らにランチ時の話を聞かせたらどんな顔をするだろうか。歌声喫茶なんてピンとこないだろうなぁ。カラオケとは違うんだヨ。あの、東京オリンピックだって彼らには歴史上の出来事でしかないのだろう。以前、リカコとの会話で「東京オリンピックのことは分かりません。母に、女子バレーの決勝戦が分娩室で見られなかったって未だに言われます。だって、その翌朝に私産まれたんですから」と言われショックを受けたものだが、今年の新人君の中には「昭和39年? 母が生まれた年です」なんて言い出す青年だって居るかもしれない。ああ、昭和も遠くなったのねぇ。
午後の講義は‘お腹の皮が突っ張ると瞼が弛む’の道理どおり、教える方も教わる方も睡魔との闘いから始まる。これではイカンと知恵をしぼりクイズやゲーム感覚で、PCを使った実地の指導をしていくと、若人は俄かに活気づいただけでなく質問が飛んできた「姫宮さんて、昔からゲーム好きだったんですか?高校生の頃、ゲーセンに入り浸ってたタイプですか?」
あのね、私が高校生の頃に埼玉県は南埼玉郡の町にゲーセンは無いから。iPODどころかSONYのウォークマンも、DVDどころかVHSも、デジカメだって無い時代だからね。この青年達もいつの日か「平成も遠くなったなぁ」って感慨に浸る時が来るのだろうか。その時には懐かしく思い出してくれるだろうか、優しかった25歳の美人講師のことを。
北海道が好きだ。「I LOVE 北海道」ってやつだ。(本当はLOVEを紅いハート型にしたいとこなのだが、そんな技術を持ち合わせず残念)
初めてかの地を訪れたのは、稚内での友達の結婚式列席のためだった。青函連絡船がまだ運航されていた頃で、群青色の海のうねりに感激しながら本州を後にした。何しろ初めての北海道、行ってみたい所、食べてみたい物がわんさかあった。ああそれなのに、稚内は遠いあまりにも遠い。(稚内にさえ行かなければ、アッチもコッチも行けるのに)と、最初に結婚式ありきを忘れ、稚内の地がうらめしく思えたものだ。
連絡船で着いたのは青函の文字の通り、函館。海に出て、かもめの舞う砂浜を走る乙女一人。ああ私はかもめ、絵になるなぁ。な・なんなんだ絵の中に豚と狸が入って来たではないの。そうでした同行者に、自分も行ったことのない北海道について行くと言って聞かなかった豚弟と、札幌出身都内在住のこの度の花嫁の伯父さんなる人が案内役を買って出てくれ、上野発の寝台特急から3人一緒だったのだ。これって、夏目雅子か深津絵里演じる三蔵法師が、猪八戒と沙悟浄を連れて遥か北の地を目指すという図になるのだろうか。はて悟空、悟空はどこじゃ?
荷物をホテルに預け、坂の町函館を散策。じっと手をみた啄木さんの碑もみつけたし、函館山ではキタキツネとも遭遇。帳が下りるころには100万ドルの夜景を目の当たりに、その美しさに見とれながらも、寒さにお初にお目にかかるドテラを着込んだ団体客に身を寄せて暖を取ったものだった。だって寒いんだモン。そう言えば、9月の頭の北の地の電車は、天井で扇風機が回っていながら、足元はスチームがガンガン効いていたっけ。
翌日は登別まで移動。クマ牧場を見学してから♪ここは北国登別の湯〜に入った。その広さは、温泉地までもデッカイドー・北海道だ。でも、大きさよりも驚かされたのは「女」の暖簾をくぐって入った浴場が、先に進んでいくとどこからか混浴になっていた事だ。女のカンで水着を着て浴場に入った私は、ホッ。猪八戒や沙悟浄にあやうく柔肌を見られるトコだったぜ。
翌日、自然満載の知床を目指すという豚弟と別れ、花嫁の伯父と花嫁の友人は花嫁の伯父の弟さんの住まいがある札幌を目指した。「やーや、ハルミちゃんのお友達かい」と、なんとも人懐こい笑顔で、花嫁ハルミちゃんの義理のオバサンにあたる方が出迎えてくれた。「北海道、初めて? 疲れたっしょ。ささ食べて」と出されたオレンジ色のメロン。その時、夕張メロンというものを初めて見た。そして、その大胆な切り方に感激。なんとメロンを半円の状態で手渡されたのだ。添えられた匙だって、カレーを食べる時に使うような大きな物だ。私は、プリンス・メロンだって六等分されたのしか食べたことがない。マスク・メロンなんて言ったら、結婚式の最後の最後に、お皿の上で立っているのがやっとですぅという状態の薄さのしか食べたことがない。なのに半円よ半円。しかも旨い!! 北海道ってイイナ。すっかりファンになってしまった。(食べ物の力って凄い)。その日の夜は、食後に花嫁の伯父兄弟が若い頃から通っていたという飲み屋さんに顔を出したり、露天商をひやかしたりあっという間に日付が変わっていた。
さて、いよいよ稚内に向かって出発。やっぱり稚内は遠かった。随分と長い間、車窓の景色を見ていた気がする。稚内に近づくにつれ、植物がだんだんと背が低くなり、笹だけが目につくようになって行った。稚内に着くと、せっかくだからと最北端の地、宗谷岬へ。「この海岸にはメノウがウジャウジャあるんだよ」という花嫁の伯父の言葉を信じ、浜辺でメノウ探し。海水に濡れた石は、どれもこれも光り輝き貴石に見える。片っ端からビニール袋に入れて宿に持ち帰ったが翌日、乾いたそれらの“メノウ”は、どこから見ても“石ころ”でしかなくなっていた。
式の当日、私は教えられた美容院に行き、髪をセットしてもらうことにした。しかし、通りに出て、待てども待てどもタクシーが通らない。やっとこ来たと思ったら逆方向。ええい、ものは試しと向かう方向を指差すと、なんと道の真ん中で思いっきり方向転換。しかも、その愛想の良さ。益々、北海道が好きになる。
美容院で、私は事故に巻き込まれてしまった。ここでも「や〜や、東京から来たのぉ。遠かったっしょ」とはちきれそうな笑顔で迎えられ、髪を洗ってもらっていたのだが、奥の方でヴァンだがヴォンだかという破裂音がした。そして「ひゃぁ、どってんこいたぁ」と、中学生くらいの男の子が真っ黒な顔をして扉の奥から店へ飛びこんで来た。どうやら、店の奥の居住空間で、ストーブの掃除を試みたところ、そのストーブが思いっきり煤を吐き出したらしい。私は危ないからと、首にタオルを巻き髪も濡れたまま店から前の道路へと追い立てられた。火をつけていたわけではないので、たまった煤を吐き出すとストーブは、何事も無かったように静かになった。「このタクランケがぁ、あんまりチョスでない」と、美容師のお母さんは息子さんを叱りながらも明るい笑顔は変わらない。息子が、自分から進んでストーブの掃除を始めたことは嬉しい出来事だったのだろう。少々きな臭い美容室に戻り、洗髪からのやり直し、そしてセット。丁寧に仕上げていただき、お金を払おうとしたら「あずましくなくってねぇ」と受け取ってくれない。「それでは困るから、せめて半分でも」と、支払おうとするのだが「な〜んも。いんでないかい」。私の北海道大好き心がどんどん大きくなって行く。
さて、家に帰ってからは豚弟が「知床のかもめは海の上を這うように飛ぶんだぞ」とか「海こに沈む夕日が四角に見える所があるんだぞ」とか「海から昇る日の出を見ていたらゴジラが出てきそうだった」なんて分かり易い形容をして「夕日見たか? 日の出、見たか?」と聞いて来るが、「ドッチも寝てて見てない。海ではメノウ探しに眼の色を変えていた」としか答えようがない姉だった。でも、たった1回の旅で姉弟は共に、頭の天辺からつま先まで「I LOVE 北海道」になって帰って来たのだった。
そうそう肝心の稚内での結婚式だが、北海道では一般的だという会費制の体育館で執り行われるものだった。因みにこの新婚さん、新居用の家具を買って引いた籤で、ハワイ旅行を引き当てたという幸せものだ。この運にあやかれれば、もっともっと北海道を好きになるのだけど。
英語が苦手だ。「犬が星を見ているよう」という形容が当たるくらい、横文字がさっぱり分からない。ところが、なぜか外国人に道を尋ねられることが多い。それも、何人もの人をやり過ごして「貴女を待っていました」と言わんばかりに近づいて来て英語でまくしたてる。目指す場所は日本名なので聞き取れるし、その道程も分かるのだが、その伝え方が分からない。結局、語尾も明瞭な日本語で手振りを交え「ここを真っ直ぐ行きまして、信号を右に曲がり…」と、説明する。これが意外なことに通じるんだな。要は伝えようとする気迫と、このワタクシの美貌と愛嬌よ。以前、乗り合わせたJRの車中で、女子高校生と思しき金髪碧眼のグループが、つり革を伝い歩いたりしながら大声で騒いでいた。煩いったらありゃしない。周りの人達も迷惑そうにしてはいるが、誰も眉間に皺を寄せながらも見て見ぬ振り。ワタクシ、つっと立ち上がり、金髪めがけて言いました。「静かにしなさい!! 皆、迷惑してるんだから」。もちろん、ちゃんと通じましたよ。
こんな私でも1度だけ「英会話」を習おうと発起したことがある。育ての親を自称している愛息が小学生になった時、この子が英語を学ぶ前に母親(?)の威厳にかけても、しっかり英語を習得しておこうと思ったのだ。そして、たまたま外国人と遭遇したときに上手に会話ができたなら、息子の目は輝き、その瞳から読み取れるだろう“尊敬”という二文字が、なんてね。ところが、やっぱり苦手なパクチは食べられません。結局Departureという単語を覚えただけで、出航もできずに撃沈。同年齢の日本人女性講師とは勉強抜きの友達になり、今でも時々、日本語オンリーでお茶をしている。
しかし、不思議なことに私の周りには英語が堪能な人が多い。それも通訳やら翻訳までこなすというハイ・クラスな人達揃いだ。社員食堂で昼食を摂っているところに、サンドイッチの乗ったプレートを持って「ジョイントしてもイイ?」なんて聞かれると(おお、ジョイントかぁ)と、その一言で恐れ入ってしまう。そんな彼女達から聞いた話がある。美里さんは、新婚早々世田谷のマンションに住んでいた。当初は快適に過ごしていたのだが、半年ほどした時に真上の部屋の住人が変わり、とんでもない目に遭うこととなる。上の住人の立てる音が半端じゃないのだ。朝から晩まで、ガンガン・ガタガタ・ギーコギーコ!? 一体、何事かと音の正体を確認すべく上の階を尋ねてみると、なんとそこんチのガキ…いえ就学前の男の子が部屋の中で三輪車を乗り回していたのだった。三輪車は外で乗るものだという当たり前の事を美里さんは主張した。すると「ウチは海外が長かったのです。海外では庭がそれはそれは広かったのです。そこで息子には三輪車で遊ばせていたのです。日本に帰ると、思う存分三輪車をこげる庭がありません。なので部屋で乗せてあげてます。オホホ」と、のたまわったそうだ。けれども、これはどう考えても受け入れられるものではない。“ニッポンの常識”を、とくとくと言ってきかせやっとこ頭上三輪車事件は解決した。けれども数日すると美里さんの部屋のベランダに、天からコップやスプーンや玩具が降ってくるようになった。降って来るのは上からに決まっている。そして上には例の三輪車の部屋しか無い。美里さんの住んでいたマンションは段々畑のように、下の階のベランダが突き出た形式でついているので上の階の住人がベランダから物を落とせば、それは下の階のベランダが受け止める形になるのだった。美里さん、奇跡的に割れなかったコップと、スプーン、玩具を手に三輪車の部屋を訪ねた。「ウチは海外が長かったのです。海外では広い芝生の庭のある2階建ての家に住んでいたのです。2階のベランダから物を落としても芝生が優しく受け止めてくれたのです。オホホ」。人が居なかったから良かったものの、まともに頭に当たったらと思うとゾッとする。「これから、いちいちお邪魔するのは大変ですから、電話番号を教えて下さい。何かあったら即、電話をさせていただきます」。美里さんが、こう言ったのも当然だろう。すると、三輪車の母は電話番号を諳んじるのに「スリー・セヴゥン・ジェロ…ウチは海外が長かったのです。数字も自然と英語になってしまいます。オホホ」。とうとう、美里さんの堪忍袋の緒が切れた。プチン!! 「海外のドコで暮らしていたのか知らないけれど、どこの世界に子供に部屋の中で三輪車に乗って階下に迷惑をかけて良いという親がいる。ベランダから物を投げて良いと教える親がいる。なにが海外生活じゃ、おととい来やがれ!!」と、流暢なキングス・イングリッシュで捲くし立てたのだった。その時の三輪車の母の顔は「鳩が豆鉄砲を食らった、というのをしっかり見たワ」と美里さん。もはや、海外生活が自慢になった時代ではないのだよ。
細田さんは、海外旅行から帰るときに乗り合わせた飛行機で、フライトアテンダントにとても不快な思いをさせられた経験がある。「お土産を機内で買おうと思ったのよ」。ところが、ワゴンに乗っている物を外国人のスッチー(こちらの方が分かり易いです)が売ってくれないというのだ。まるで「お前の発音するところの品は無い」というような受け答えだったらしい。暫くすると、日本人のスッチーさんが現れたので○○が欲しいと伝えると、先ほどのワゴンから持って来てくれた。ところが、お話はそこで終わらなかった。ケンモホロロの外国人スッチーが、日本人スッチーに小声で文句を言うのを細田さんの耳は、キャッチしてしまったのだ。「何さ、最後の一つであれは私が友達にお土産に買って帰るつもりだったのよ」「お客様に、お渡しするのが当たり前でしょう」「だから日本人は付き合いにくいのよ」。細田さん、同胞にまで当たられてここは黙ってなんていられません。もちろん、ここんとこは先ほどと打って変わった英語の巻き舌で「ふざけたこと言ってるんじゃないわよ。あなたのようなスッチーに人間様の相手はしてほしくないわね。豚小屋の番でもしてなさい!!」。きっと、件のスッチーは眼の色を変えたことだろう。
美里さんも細田さんもカッコいいなぁ。まるで『水戸黄門』の印籠が出た時みたいだなぁ。私も1度、こんな胸のすく思いをしてみたいものだが、英語がNO婆では…。結局、行き着く先は身振りと美貌と愛嬌ね。
追伸:心ならずも婆の字を使いましたが、姫宮は永遠の25歳ですので悪しからず。
大阪に赴任中のゆかリンは、周りから“不思議ちゃん”と呼ばれている。顔が?マークに似ているわけでも、挙動不審だからというわけでももちろんない。そのニックネームの所以は、彼女の趣向にあるようだ。今話題のスピリチュアル・カウンセラー、江原啓之氏の出演するテレビ番組「オーラの泉」を逃さず見ているのはもちろん、本を片っ端から読んだり講演会に足を運んだりしては、その時受けた感銘を周りの人達にとうとうと語る。あるいはフィンドホーンという、スコットランドの北の端にあるスピリチュアルなコミュニティでの暮らしに憧れて、真面目にホームスティを考えたりしている。そして“バッチフラワーレメディ”と呼ばれる、英国人のバッチ博士によって生み出された癒しのシステムも熱心に勉強している。これは野生の花から採取したエネルギーを飲むことによって、精神のバランスを整え、自然治癒力を高めることができるというものだ。アロマセラピーの飲料版といったところだろうか。その類に一切興味の無い者にとっては、精神世界に住んでいる彼女はやはり“不思議ちゃん”と呼んでみたくなる存在ということになるのだろう。
赴任先の大阪から、有給休暇を取って横浜の実家に帰って来た時に、我がマンションにも顔をみせてくれた。その際“不思議ちゃん”ワールドへのいざないが、この私にも伸びて来た。江原さんの講演会は「5分で完売」とかで、彼女自身のチケットさえ手に入れるのが困難な状態。これでは私に出番は無い。そして、門外不出の私故一緒にフィンドホーンへ行ってホームスティをしようというお誘いは、丁重にお断りした。すると、せめてもと大阪に帰ると直ぐに、“バッチフラワーレメディ”を私のために調合して宅急便で送ってくれた。幾重にもプチプチビニールシートで包装されたスポイト付きの小さな茶色い遮光ビンに入っており、ラベルには調合された花の名前が丁寧に記入されている。
アグリモニー、ホリー、ミムラス、ゴース、ハニーサックル。最高でも調合するのは6種類までと決められているらしいのだが、私には5種類もの花のエキスが必要だったようだ。ちなみに、それぞれはアグリモニー=うわべは明るくふるまっているが内心は悩みでいっぱい。ホリー=人に対して嫉妬心、嫌悪感、疑い、恨みなどの攻撃的な感情を抱く。ミムラス=原因がわかっている恐れや不安。内気な性格。ゴース=絶望して、何をやっても無駄と思う。ハニーサックル=過去の思い出に浸って、懐かしんだり後悔したりする、という症状へ効果がある花々だ。私って、後悔したり悩んだり、嫉妬に狂ったり絶望感にさいなまれながらも、うわべは明るく振舞っているというなんとも悲しくも健気な女性だったのね。
さて、ゆかリンが私のために調合し送ってくれた“バッチ・フラワーレメディ”ゆえ、ご指示に従い茶色のボトルからスポイトで4滴、1日に4回を朝起きた時、瓶ごと会社に持って行きランチ前と退社前に、そして就寝前に4滴と律儀に飲み続けている。味は殆ど無い。スポイトの先に鼻を押し当て嗅いでみると微かにお酢のような香りがするが、飲んでみると、その香りすら消えてとっても微妙。その効果の程なのだが、気分は爽快で体中にやる気がみなぎりリポビタンDを飲んだように「ファイトォ1発!!」と叫んでしまう、というなら素晴らしいのだが。眠い、ひたすら眠い。1日中眠くて眠くてたまらない。日中は、一応会社勤めの身であるし、活動の時間なので眠りこけてしまうことは無いのだが、家に帰り着くと半端じゃない睡魔がドッと押し寄せて来る。1番何に影響が出るかと言うとテレビだ。中学3年生で、進路を決める教師、親、本人の三者面談の席で担任教師に「テレビの虜になっているのは誰ですか?!」と言われるくらい、テレビ大好きでテレビ漬けの毎日を送っている私の身に、睡魔のせいでドラマを最後まで見ることができないという、わが人生始まって以来の珍事が起こっている。番組改編時なので、毎週楽しみにしていたドラマが次から次から最終回を迎える。これは見逃せないと思い、外食は控えて飛んで帰りテレビの前に座るのだが、あらら上の瞼と下の瞼が…。結局、最後の最後の10分ほどを居眠りしていて肝心な終焉を見ることができない番組が幾つもあった。お馴染みの2時間サスペンスも、断崖絶壁に犯人と思しき人が追い詰められ、最後の謎解きという辺りで、しっかり瞼が閉じてしまう。臍を噛む思いという言葉を、実感した春だった。
ゆかリンが、状況を聞かせて欲しいというので正直に睡魔襲来を知らせると、それは利き始めている前兆だと言う。変わるための準備期間なのだと。ホンマかいなとは思うものの、律儀な私は今日も1日4回4滴ずつを守っている。こうなりゃ、最後まで人体実験のお手伝いです。
そうそう、不思議ちゃんが生年月日を教えてというので知らせると、前世を見てもらってやるという。どこのどなたにみてもらったのかは分からないが「姫宮さんの前世はVIPです」との話。「前世でVIPとして、贅沢三昧な人生を送ったから今生ではその分の苦労があるらしいけど、それが与えられた試練です。今生での修行ですから」って。確かインターネットの占いサイトで、自分で試してみた時の前世は「平安貴族」と出た。毎日、碁などをして優雅に暮らしていたらしい。どうやら、何でみても私の前世は相当に恵まれていたらしい。そしてその分、現世の私は苦労をしなくてはいけないらしい。
親の因果が子に報いなんて言葉は聞くけれど、なんだって私は前世のつけを払わされなきゃならんのか。オーイ前世の私、あとに続く私のことを考えて行動しろ!!って、今言ってもなぁ…。
数年前の2月、息子の母親(???)が電話をかけてきた「惠子ちゃん、宗彦の卒業式に貴女も行く? 宗彦が総代で答辞を読むのよ」。このお誘いに、育ての母を自認する私は二つ返事で「行かいでかぁ」。私が育てた息子故、小・中・高と卒業式ではずっと総代を務めて来た。しかし、この度は最後のお勤め、やっぱりその姿を見てみたい。
式の前日、産みの親と自称育ての母は新幹線に並んで座り、一路京都へと向かった。車内では、独りの“おとこ”を巡って火花が散った。などということはなく宗彦の思い出話で盛り上がり、初めての二人旅とは思えないくらい楽しい時間を過ごすことが出来た。
お互いに超ド級に久しぶりの京都。着いたとたん、あまりに様変わりした京都駅にビックリ。近代的、かつ斬新な建物。黒御影石の塊のような駅に設置されたエスカレーターの数、一体何基あるのだろう。そのうちの1ツで下ってみると、目の前に手塚治虫の博物館を発見。その名も『KYOTO手塚治虫ワールド』。何にでも興味をもつところは二人の母親に共通した点らしく目と目で合図して即、入場。アニメシアターでは“火の鳥”が案内役となり、アトムやジャングル大帝レオ、リボンの騎士が活躍する物語が繰り広げられる。最後には天をも劈くような雷鳴が轟き、目の前に雨が降る。もう二人とも大興奮だ。古都京都の旅は、驚きと興奮で幕が上がった。
シアターを出るなり、産みの親はズンズンとどこかを目指して進んで行く。おとなしく従うと、観光バスのコーナーだ。どうやら予約を入れてくれていたらしい。乗車するのは『春の京都・ゴールデンコース』。ゴールデンでおます。いやはや、どないでっしゃろ。
まずは日本庭園を見て、会席料理を楽しむんだとか。バスが着いたのは、着物メーカー“しょうざん”が開いた、鷹峰三山を借景に1000本もの楓や梅を楽しむことができる、なんと11万平方メートルの広大な日本庭園。残念乍ら冷たい小雨が降り始め、早々に敷地内の食事処へ退散。庭園散策の時間も併せて、ゆったりと京懐石に舌鼓を打つことができた。よろしおしたなぁ。その後は隅に設けられたコーナーで、産みの親と育ての母、各々が己の母親のお土産にと、縮緬で作った小物や京都のお漬物を購入。最初からこれでは、先々、荷物がどれくらい増えるやら。
次にバスが向かう八坂会館では、京都市観光協会の主催で茶道、琴、華道、雅楽、狂言、京舞、文楽が楽しめるという。し、しかしどうやったら先ほどの食事時間そして移動時間まで含めて4時間のコース内で、これらの古典芸能が楽しめるのだろうか。
はははのは、笑っちゃうほどお見事としか言いようがありませんでした。狂言は茂山宗彦、逸平というテレビでもお馴染みのご兄弟が出演し、時間をかけての舞台だったが、他の出し物は、ほんのさわりだけ。衣装でなるほどと思わされた気がした。何よりも驚いたのは、狭い舞台上で琴を弾いている人の横にお花を生けている人がおり、そのまたお隣には、お茶を立てている人がいるという図だ。茶の間でお母さんがアイロンを掛けている横で、娘がコーヒーを入れ、息子がギターをかき鳴らしてるようなものだ。なるほど確かに見ました、茶道も華道も雅楽も狂言も文楽も、京舞も。そして聞きましたお琴も雅楽も。でもなぁせっかくの京都、盛り沢山でなくて良いから、1つの芸能をじっくりと拝見、拝聴したかった思いが残る。このコースは外国人に人気があるらしく、日本人の乗客より人数が多いくらいだった。どんな印象を持って日本を離れることになるのだろう、ちと心配どす。
さて翌日は、いよいよ息子の晴れの舞台。早めに大学の講堂に行くと、いましたいました、ビシッと濃紺のスーツに身をつつんだ我等が息子が。まぁ立派に育ってくれたものよねぇ、母は涙を禁じえません。いよいよ式次第が始まりました。なのに何なのよぉ、来賓の挨拶が続く中を、卒業生達がダラダラと入場してくる。緊張の様子も悪びれた様子も全く無い。呆れながら見ていたが、どうにか大詰めである答辞の時には、やっとこ場内の出入りも無くなりザワメキも落ち着いた。この事を、かの大学の先輩にあたる“京おんな”は美里さんに報告すると「そんなん校風やでぇ」とのお答え。「そか、後輩達も校風をしっかり守っているんやなぁ」。ほんまかいな。
「答辞、二人の母をもつ宗彦くん」と、式の進行役に名指され息子は段上に。仰々しく松の盆栽の置かれた講演の台(?)を挟んで立っている学長に向かい、おもむろに内ポケットから答辞の書かれた用紙を取り出すと、朗々と読みあげ出した。今回のオリンピックで、アスリートの親御さんが「自分の子供だとは思えません」と、涙ながらにインタビューに答えていたが、まさにそんな気分だ(元から違うって)。でも見て見て、あの堂々とした青年は、この私が育てた自慢の息子よ。さすがに一字一句、間違えることも滞ることも無く、息子は最後まで読み上げた。母は感激で胸がいっぱいです。(ここで学長に一礼して大役は終わり)と思った途端に、な、なにをする?! 息子は学長の首をむんずと掴み、自分の顔の横に学長の顔を引き寄せた。そしてポケットに忍ばせておいた使い捨てカメラで、学長と自分の2ショットをカッシャッと激写。そして「これが、融合の体現です」と一言。あっけにとられている学長と握手をすると、颯爽と舞台を下りた。二人の母は冷や汗ものだったが、学生からはヤンヤの喝采。どうやら学長の祝辞の中に、やたら盛り込まれていた“融合”という言葉を使って揶揄したらしい。それが大うけするのも、学長が拍手で見送ってくれるのも校風でしょうか。
しかし、あの度胸。私の姿が見えないと、ピーピー泣いて探していた頃の面影は今、何処。「親は無くとも子は育つ」。ン「母親二人でも子は育つ」。イヤ「親はこうでも子は育つ」かな。それに引き換え、育ての親は育たなかったなぁ。