50の手習いという言葉はよく耳にするが、実際に50になってから習い事を始めた人を、先日初めて目のあたりにした。ものはピアノ。たとえ上手いとは言い難くても、観たり聴いたりだけでなく、わが身を使って始めた趣味には感心させられる。

50過ぎて始めたピアノ。一体きっかけは何だったのか聞いてみた。「娘がピアノを弾かなくなっちゃったから」。泣いてせがんだ一人娘に、身の細る思いでピアノを買ってやったのは、もう20年も前のこと。蓋さえ開けられなくなったピアノは今では物置と化していた。もったいないよなぁと思っての一念発起。今や、世界的に言われだした「もったいない」に乗ったのかな。

この人、もともと凝り性だし芸術の素養もあったらしい。以前、同じ部署に居たときに誕生日祝いと称して自作の絵を贈ってもらったことがある。油絵や水彩画とは違う。点描というのだろうか、シャープペンで叩くようにつけた点の濃淡で、ギリシャの朽ちかけたエンタシスの柱と、砂漠と太陽が描かれていた。その大胆な構図と繊細な点の集まりには心底驚かされたものだ。なのに、絵にサインされた文字はというと、その繊細な絵を描く同じ手で書いたとはとても思えない。どこまでもカナ釘がのたくっているのだ。そう言えば海外の出張先から、部に絵葉書を送って来たときも、その絵の上にこの字が並んでいた。それを見て言ったのは誰だっただろう。「宛名だけ裏に書いてくりゃ綺麗なままの絵葉書だったのに」。

パソコンにも強く、皆がやっと文字を打ち始めた頃から作曲までこなしていたっけ。クラシックを自分なりにアレンジして、皆に聞かせてはその評判に鼻を高くしていた。なのに部の旅行で披露したノドは、ぬか味噌どころか、聞いた人の脳みそも腐らせるのではないかと思うくらい見事な音痴だった。どうも、分からない御仁ではある。

さて、どうしても自分の腕を披露したいという事で、連れていかれたのは銀座の柳もなびく通りに面したビルの2階。小さな貸しスタジオだった。入会金、千円。室料が1時間3千5百円だという。さして広くない部屋にグランドピアノがどんと置かれ、拝聴用(?)に椅子も並んでいる。

さて、主役がピアノの前に座りポロンとキーを叩いてみる。「ちょっと音が硬いな」なんて、聞いた風な事を言いながらまずは1曲。終わったと思う間も無く2曲目3曲目と短いけれど次から次へと‘アマゾネス’は鍵盤を叩き続ける。やっと(ここで拍手してもいいのかな)という間があったので、思いっきり拍手ぅ。「1曲目は荒れ果てた舞踏室、2曲目は秋のスケッチ、3曲目は間奏曲だったんだよ。凄く短かったけどね」確かに、弾いてる時間より間違えている時間の方が長かった気がする。その次に聴かされたのは「舟歌、漁師の歌じゃないよ、ゴンドラの唄だよ」。ウッ、船酔いしそう。

この調子で「次はぁバロック時代のメヌエット、宮廷のダンスだよ」。「次はぁ、アベマリアの原曲」。「次はぁラグリマ、これはスペイン語で涙という意味」。「次はぁ…」。1曲終わったと一息つく暇も与えられず、永遠に続くかと思われた「次はぁ…」の声。君は山の手線かぁ。

ほぼ1時間、「次はぁ」の声が頭を巡ったところでやっと解放され、逃げ出さずに聴いたお礼に(?)近くでスペイン料理をご馳走になった。もちろん、そこでの話題もピアノ一本槍。何しろ彼は今、50歳を過ぎての受験生なのだ。英国王立音楽検定なるもののグレード3、4を目指すのだと言う。最高は8まであるそうだが、グレード1でも2でも合格すれば、女王からのお墨付きがいただけるとあって鼻息が荒い。

「さっきのピアノは、どうも音が硬かったな。うちのはもっと柔らかい音が出せるんだけど」と、重ねて言うので聞いてみた。20年も前に買ったピアノが、今でも、そんなに良い音をだすものかと。返事を聞いてビックリ。なんと、自分用にプレイエルなる超高級ピアノをとっくに購入していたのだそうな。「頑張ったから自分にプレゼント」なんて。では‘50の手習い’のきっかけになったピアノは、今でも物置のままですかぁ。

「ドイツのピアノはピアノの音がする。フランスのピアノは香水の香がする。そしてプレイエルはショパンの音がするって言うんだぜ」なんて、どこから引っ張って来た言葉だか。ショパンが愛したピアノかどうかは知りませんが、200万円近くもする物を自分へご褒美にプレゼントしちゃうなんて、太っ腹ぁ。いっくら自分が大好きなO型でも、私にはとてもできない芸当だ。

そう言えば、ウエダがしょっちゅう言っているエピソードがある。それは社の、先輩に当たる女性の話。その先輩は55歳の一次定年を前に54歳で肩叩きのような形で、放り出されてしまった。そして、「働いて来た自分へのご褒美」と、かの豪華客船『飛鳥』に乗って世界一周の旅に出たのだった。往路は1人、一番料金の安い客室で。そして復路は最高級の部屋で巡り合えた男性と一緒に。

自分へのご褒美って、皆さん豪気なものなのねぇ。ウエダが盛んに、私にも飛鳥に乗ってセレブ婚を目指せと薦める。でもねぇ、そんな事を目論んで1人で乗って、1人で帰って来たらご褒美どころか、罰になってしまうじゃない。自分へのご褒美…せめて、血圧を抑えるために毎夜食べている納豆に、今夜は卵を入れちゃいましょうかねぇ。ゴマも、ついでに、海苔だって入れちゃうぞ。