「教」
なぜかテレビは再びクイズ番組ばやりである。ひところの素人が競うクイズ王決定戦のようなものから、最近ではタレント中心に変わっているが、常連の出演者で蘊蓄を売り物にする人が何人かいる。蘊蓄の蘊は積む、蓄は貯蓄の蓄、貯えるであり、知識を深く積み貯えていることをさすが、彼らの披露する蘊蓄は何の役に立つというほどの知識ではない。だからこそ、そんなことまでと感心もし、呆れもされて、テレビで重宝されるのだろう。
知らなくてもどうでもいい知識を蘊蓄することはないが、世の中を渡っていくのに必要な知識、人間として心得ていなければならないことは、子供のころからきちんと教えていかなければいけない。それこそが教育というものだろう。
教育の「教」は爻 (こう) と子と攴 (ぼく) とから成る会意文字で、「爻は屋上に千木のある建物の象形。古代のメンズハウスとして、神聖な形式をもつ建物で、ここに一定年齢の子弟を集めて、秘密結社的な生活と教育とを行った。指導者は氏族の長老たちで、氏族の伝統や生活の規範を教える。攴は長老たちの教権を示す」(白川静『字統』)という。
「教」一字に建物としての爻、教えを受ける子、教師の権限までが含まれているところが漢字のすごいところだ。秘密結社的なメンズハウスというから、王族の子弟などエリートの男の子ばかりを集めて、次代を担う指導者としての基礎教育を施したのだろう。
中国古代の氏族のエリート教育に端を発した「教」育は、日本に渡って明治以降学校教育として整備され、今や予備校、生涯教育機関など巨大な教育産業にまで発展している。その間に人間の知識量は厖大に膨れあがり、知識を詰め込むのに急で、本質的なことは何もわからぬ子供たち、いや大人たちまでが増えてしまった。
教育の本質は何かといえば、たとえば記憶の伝承であると思う。我々人類の祖先がやってきたこと、その結果。それを知ることで、この先どう生きていったらいいかを推し量る。人間同士殺し合ってはいけない。動物や植物、海や山の自然も大切にしなければ、生きていけない。そういうことを知り、よりよい工夫を考える。そんなことに尽きるのではないか。古代のメンズハウスで教えていたことも、そんなことに違いないと思うのだが。
東京生まれ。元新聞記者。漢字と社会風俗を結びつけた「温語知新」を隔月刊誌「グラッパ」(旧日経事業出版=現日経人材情報・発行)に連載するも、同誌が4号で休刊になり中断。ここでは4回の連載を上下に分けて8回掲載、その後は新たに書き下ろして連載する予定。









