座り小便
道を歩いていたら、前方空き地の前の草むらに立ち尽くしている男がいた。何をしているのかと見ると、両手が下腹部のあたりにある。今どき珍しや、立ち小便である。
別に感動することもないが、ひところまではあちこちで見かけた立ち小便を、とんと見なくなった。都会ではあちこちのビルで便所を利用できるようになったし、逆に道路はほとんど舗装され、小便を吸い取ってくれる地面や草むらが少なくなり、立ち小便ポイントが激減した。というより、さすがに立ち小便は恥ずかしいという意識が広まってきたのだろう。そういえば鳥居のマークに「小便無用」と書いた注意書きも見かけなくなった。
若いころは、飲み屋の帰りなど川に向かって四、五人が並び、関東の連れションベンと称して放尿したものだ。「連れ小便」は広辞苑にも「連れ立って一緒に小便をすること」と立派に載っているが、もうほとんど死語の部類だろう。
立ち小便が少なくなったのは結構なことだが、だからといって便所でまで座り小便をすることになるとは、まったく予想外だった。TOTOの調査として新聞に出ていた数字だが、二十歳以上の約二千三百人に聞いた結果、「洋式便器に向かって立って」する人が六五・四%で一位だった。一位は当然だが、「洋式に座って」という座り小便組が今や二三・七%もいるという。
四人に一人の座り小便組があげた理由は「掃除が楽」「姿勢が楽」だという。便所掃除は今や男の仕事らしく、座ってした方が飛び散らなくていいし、座りなれるとリラックスできるのだそうだ。新聞では背景として旧住宅公団が団地のトイレに小便器を設置せず、一九六〇年に全国一律に洋式便器を導入したことをあげている。小便器なしのトイレは民間にも波及し、昨年売れた小便器は四年前より六万個減の三三万九千個で、その九割が公共施設向けとか。
今や小便器のある家庭は数えるほどなわけで、となれば汚さずにすむように座り小便となったらしい。合理的といえば合理的だが、座り小便って、尻をまくっている姿もさることながら、語感もなんか情けなくないか。体の構造からいっても男は立ってするようになっているわけだし、たまっていたものを排出するあの爽快感は立ってやればこそじゃないだろうか。
よし、関東の連れションベンだって、いい男が一斉に尻をまくって座りこんだんじゃ、色気もなにもあったもんじゃない。
ネーミング・ライツ
グリーンスタジアム神戸がYahoo! BB スタジアムに、調布の東京スタジアムが味の素スタジアムに。自治体の財源不足による公共施設のネーミング・ライツ(命名権)販売で、企業名をかぶせた施設があちこちで誕生している。大阪府も大阪国際会議場などの命名権販売を検討中とかで、会議場を設計した黒川紀章氏が「品格のある公共施設として残して」と反対しているという。
名前を付ける権利を一定期間譲り渡すだけで億単位の金が入ってくるのだろうから、こんな安直な商売はない。無駄金を使いながら、財政難などとほざく役人が「そんな手があったか」と膝を打っている姿が見えるようで、黒川氏の気持ちもわからないではない。
一方で、戸籍法施行規則の改正で人名用漢字が増え、大阪の潜水士の長男「かじ」君がようやく「舵」君になれた。出生当時の人名用漢字に「舵」の字がなかったため、出生届を受理されず、やむをえず平かなで届けていた。子供の名前に付ける字を国が制限する方がおかしいのではないか。
「名もなき草などない」といったのは昭和天皇だったか。ものに名前を付けるということは、命を与えることでもある。グリーンスタジアム神戸や大阪国際会議場に、どれほどの思い入れがあるかは知らないが、「舵」君には大海原のような人生を歩む舵をという潜水士の父親の思いが感じとれる。
昔から名付け親といって、日本では母方の祖父に名前を付けてもらう慣習があり、あるいは私淑する人などに後見人をお願いして、仮親として名前を付けてもらった。命名はそれほどの重要事であり、親を始め大人たちの願いが籠められていたのである。
いいかえれば命名権はそれだけ権威のある重い権利であり、だからこそ高く売れるわけで、ネーミング・ライツが商売になるのも、当然といえば当然なのだ。どうでもいい公共施設の名前ならせいぜい高く売ればいいが、例えば甲子園球場を読売新聞スタジアムに変えるとなったら、日本中のタイガースファンが大騒ぎするだろう。
いっそ公共施設だけでなく、人気者の名前も売りに出したらどうだろう。メジャーリーグの大スターになったイチローなど、楽天やライブドアがせり上げてくれるのではないか。「マリナーズの楽天、今年も絶好調。昨年の最多安打記録に迫っています」なんて。それほどお金のない中小企業なら漫才コンビのネーミング・ライツを買ってもいい。吉田板金三郎・四郎、コメディー鈴木建設、コント港南商事。売れてもNHKには出演できないだろうが。
みなさんのおかげ
オリンピックとプロ野球の改編問題で揺れたこの夏、やたらに耳にしたのが「ファンの皆さんのおかげです」という言葉だ。金メダルを取って「皆さんの声援に支えられました」、合併に反対して「ファンの皆さんに喜んでもらえれば」。
スポーツ選手が何かにつけてファンに感謝したり、ファンを意識した発言をするようになったのは、サッカーブームでサポーターが大騒ぎするようになってからではなかったか。プロスポーツは観客が入ってなんぼ、人気沸騰していくらの世界だから、ファンやサポーターを大事にするのは当然だが、まだ子供のような選手が「皆さんの……」などというと、本気でそう思ってるのかいと意地悪を言ってみたくなる。
ファンの声援が力になることは事実だろうが、スポーツマンの活躍を支えているのは何よりも本人の能力と努力である。それよりも、もっとみなさんのご支援が必要なものが二つある。ひとつは言葉。
言葉は使う人の共通認識に支えられている。ある言葉について、みんなが同じ意味を受けとるからこそ、言葉として流通する。「棹さす」というのは舟を進める、時流に乗ることだが、だいぶ前から時流に逆らうことと理解する人が増えて、混乱している。「犬も歩けば棒にあたる」も元は禍いにあうことだったが、いつの間にか思わぬ幸いにあう意味になっている。「河童の川流れ」は楽しく遊ぶ様子ではないのだ。
誤用する人が増えれば、言葉は意味を変え、理解できる人が少なくなれば死語になってしまう。強調するにはなんでも「チョー」、疑問型は「まじかよ」だけでは、日本語は滅びるだけだ。
もうひとつ、みなさんの支えが必要なのは飛行機。ジャンボジェットでは離陸時の重量は三百トンを超えるそうだが、それだけの重さの物体がどうして空を飛べようか。推力だの揚力だのと説明する人があるが、実は乗客の「飛べ」「飛んでくれ」という祈りに支えられて浮き上がるのだ。離陸時に新聞や雑誌などを読んでいてはいけない、真剣に「飛べ、飛べ」と心の声を合わせなければ、飛びはしないのである。
スポーツに熱中するのもいいが、言葉と飛行機もみんなで支えてほしいものだ。
人生プロデューサー
人間というのは、といっては嘘になる、私という人間は、どうしてこう愚かなのだろうと、つくづく、そう思う。いや、人生は芝居だ、自分自身による創作にすぎないと、この歳になってようやく気がついたのである。とすれば、もっと若いころからプロデューサー意識を持って、わが人生をドラマチックに盛り上げればよかった、と後悔しているのだ。
人生は芝居だとは、よく耳にする言葉だが、比喩的に言われているにすぎない。しかし、振り返ってみると、まさに芝居そのものである。それをわからずに生きているから、つまらないことに悩んだり、無駄な間をあけたり、方向違いに進んだりして、観客をうんざりさせ、自分自身まで落ち込んでしまう。
十七、八で、自分を主役にしたドラマのプロデュースを任されるとしたら、どうだろう。ドラマでなく映画や小説、漫画と考えてもいい。恋愛ものにするもよし、サスペンスでもいい。悲劇でも喜劇でも好きなようにつくれるのだ。なにしろプロデューサー兼演出家兼脚本家兼主役なのだから。
若いうちは夢見がちだし、三十年、五十年先のことなど想像もつかないから、とりあえず十年くらいずつに区切って創作してもいい。当然、その時点で持っている金、家族、友人、社会的な位置でスタートするわけだが、つくりあげたテーマ、脚本に従って金を稼ぐこともできるし、新しい人間関係も築いていかなければならない。必要とあれば、そのための努力をすることは当然である。
二十代を自らのプロデュースで過ごしたら、三十歳の感覚で新たな人生を演出する。四十で、五十で、と次々に新しい作品(人生)を送り出していけば、シェークスピアも真っ青の大河ロマンをつくりあげられるかもしれないではないか。
もちろん人生が脚本通りに行かないのは百も承知だが、漫然とすごしているときと比べれば、はるかに納得のいく素敵な人生が送れると思う。自分の人生は自分がプロデュースし、自分が演出して演じているのだという意識が大切なのである。遅まきながら、わが人生の完結編を小津調でつくってみようかと思うのだが、さて、いかがなりますか。
肴は自殺話
時折、一人で飲み屋に入り、企画を練ったり、原稿のネタを考えることがある。そんなとき聞くともなく、隣り合わせたテーブルの会話が耳に入ってくる。先日も駅ビル最上階のビアホールで飲んでいたら、前の客が大きな声で話していた。
こちらに背を向けて大声を出しているのは男性で、相当な高齢らしい。ハイキングにでも行った帰りか、あるいは誰かにもらったのか、紙袋に入った土産をわきに置いている。話し相手も結構なおばあさんだが、言語も明晰、矍鑠としている。
男性は八十四、五歳らしいのだが、六十代にはそこまで生きるとは思わなかったとかで、「こんな歳まで生きちゃって恥ずかしいよ」という。すると向かいの女性が「じゃあ首でも吊るしかないわね。ネクタイ二本くらい合わせてさ」と応じて、あはははと豪快に笑う。物騒な話を楽しそうに話しているので耳を澄ますと、男性は首つりや飛び降りはお好みでないらしく、「もっと楽な方法はないかね」と仰る。
すぐさま女性が応じて「ウイスキー一本飲んでね、睡眠薬飲んで富士の樹海に行くのよ。ああ、雪の日にしなさい。楽に死ねるよ」。だいぶ酒が回っているらしい男性は「ウイスキーで体が温まっているから、凍死しないんじゃない?」などと嬉しそうに聞いている。しばしの自殺談義の末に、富士の樹海行きに納得したらしく腰を上げたが、男性は大満足、女性も楽しそうに背筋を伸ばし、会計は男性任せだった。
とても自殺などしそうもない二人を笑顔で見送ったが、そのあと空いた席に着いたのが、また老人。ハンチングを被った洒落た男で、ワインを頼むやイヤホンを取りだして音楽を聴きだしたようだ。じっと聴き入っているので、こちらも目を離して仕事のことなどを考え、焼酎をあおっていた。
しばらくして、ふとみると、老人が死んでいる。いや、目をつむったまま死んでいるように動かない。まさかと思って、じっと見ていると呼吸はしているらしく、胸が上下している。なんのことはない、いい気持ちで寝ているのだ。
上司の悪口や友達、テレビ番組のうわさでギャーギャーうるさいばかりの現役組に比べ、リタイアした人たちの飲み屋での過ごし方は、どうして興味津々である。
帰り道
山登りのドキュメンタリーなどを見ると、たいてい準備から登山、登頂までを描いて、あとは後日談などでまとめている。テレビの紀行番組なども行きの列車シーンから始まって、地方の名所を回り、現地で一言感想を述べておしまい、ということが多い。目的が登頂にあり、観光地巡りにあるのだから、当然のことなのだが、苦労しながら難所を通りぬけて目的を達したあと、帰路はどうしたのだろうと、最近気になるようになった。
行きがあれば帰りがある。初めて通る道ならば、地図を便りに左右をきょろきょろ、目印の店はどこか、どこを曲がればいいのか、目的地が予想よりずっと遠く感じられることが多い。そのくせ用事を終えて同じ道を帰るときは、あれっ、こんなに近かったのかとびっくりする。すでに経験済みのルートだからだろう。知り合いの葬儀に出かける、たまに旅に出る、展覧会を見に行く、会社員なら毎日の通勤がある。いずれも目的のある場所までの行きが大事なのはいうまでもないが、用件をすませてホッとしてたどる帰り道も、それなりの味があるものだ。
往路が期待と不安と昂奮に充ちているとすれば、帰路には安堵と若干の後悔と日常に戻った自分自身がある。鎧を着込み、あるいは羽織袴で正装した自分と、普段着のリラックスした自分の違いともいえそうだ。帰り道こそ本当の自分自身の姿といえないだろうか。
人間が、生きとし生けるものすべてが、どこかからこの地球へ降りたって、またどこかへ帰っていくとすれば、人生にも往きの道と帰りの道があるはずだ。還暦を超えた当方など、どう考えても帰り道にさしかかっているに違いない。働いていたころを振り返ったり、子供のころを思い出したりするのも、たぶん帰路にあるせいにちがいない。
そのくせ、はて俺は何をしに、この地上にやってきたのであったか。やるべきことはすませたのか。ふと立ち止まって、しきりに来た道を振り返り、首を傾げることしばし、なのである。初めて訪ねる目的地の帰りと違って、人生という一度しか通らない道は、行きにわき目もふらず突っ走ったせいか、目的地に着いたかどうかも定かでなく、帰り道はやけに遠い。まさか道を間違えているのではあるまいか。
鳥肌
残暑厳しき日本のあちこちで、季節外れの鳥肌を立てている人が多い。テレビを見ていると、マイクを向けられた若い女性が「鳥肌が立っちゃいました」と言っているし、NHKはじめ各局のアナウンサーも口を揃えて鳥肌が立ったという。
別に冷房が効きすぎているわけでもなく、怖い目に遭ったわけでもない。アテネ・オリンピックでの日本選手の活躍ぶりを見て、鳥肌を立てているのだ。鳥肌というのは「強い冷刺激、または恐怖などによって、立毛筋が反射的に収縮すること」だよなあと、辞書を片手に首をひねっていたのは、ついこの間のことだが、今や感動で鳥肌が立つ方が当たり前になってしまったらしい。
言葉の解釈が変わるのは珍しいことではない。広辞苑を引いても「棹さす」には、「棹を水底につきさして、舟を進める。転じて、時流に乗る。また、時流にさからう意に誤用することがある」と説明があるし、カルタの「犬も歩けば棒に当たる」も「物事を行う者は、時に禍いにあう。また、やってみると思わぬ幸いにあうことのたとえ。(前者が本来の意味と思われるが、後の解釈が広く行われる)」と書いてある。
それにしても、明治維新や敗戦時などを除き、言葉がこれほど急激に変わりつつある時代はなかったように思う。変化のスピードを加速させているのは、テレビを中心にしたマスコミだろう。タレントが楽屋で話す業界用語が瞬時に全国に広がり、しかも語彙の乏しさから同じ言葉を皆がまねる。おいしい料理は、まったりでジューシーで、マイウーだし、つまらないことにも感動した振りをして、「鳥肌が立っちゃったあ」。
些細なことにとらわれる、と否定的に使われた「こだわり」も、インタビューアーが「何にこだわっていらっしゃいますか」などと平気で聞くので、今では専ら肯定的な意味になってしまった。言葉は変わる、詰まらぬことに目くじらを立てるなといわれそうだが、半世紀以上寒さや恐怖に鳥肌を立て、つまらぬことにこだわるなと教えられた爺いとしては、つい本来の意味に「こだわる」のである。もっとも若い人たちは、ちょっとした感動もどきで本当に鳥肌が立つという話もあるから、感動アレルギーの過敏症なのかもしれない。
茜雲・その後
何日か前の「茜雲」を読んだIさんから、メールをいただいた。最近HP仲間の画像で夕陽を見ることが多い、確実に沈みゆく夕陽に人生を重ねているのではなどと言いあっている、とあった。
茜雲を見ていたときには、ただただ、きれいだなあと見とれていただけで、人生のことなどまるで考えていなかったのだが、そういわれれば何となく沈んだというか、内省的な気分だったなと思う。で、ふと、高校卒業が近いころ、♪夕焼け小焼けの赤とんぼ、の歌を聞いて、涙したことがあったなと思い出した。人生の終局にはほど遠かったが、子供時代の終わりではあった。
そんなことを考えていたら、今朝の新聞に「日の出・日の入り、見たことない子供過半数」という変な記事が載っていた。どこかの大学の先生が小中学生に聞いた結果、日の出・日の入りを一度も見たことがない子供が五二%もいたというのだ。宵っ張りの朝寝坊、おまけに家でパソコンや携帯電話相手の今どきの子供たちだから、当然の結果だろう。
記事には、もっと外に出て自然に触れる機会を増やしてやらねばとコメントが添えられていたが、ちょっとずれているのではないか。朝の太陽を拝んで「今日も一日元気ですごせますように」と願ったり、赤い夕陽に「あ〜あ、今日も終わりか」とため息をつくのは、年寄りや心の疲れた人間だ。身辺のことで頭が一杯の子供たちは、日の出や日没を見ても、いちいち意識などしない。君は日の入りを見たかと聞かれて、あれっ、見たっけ? とケロッとしているのは健康な子供の証拠ではないのか。
病気もせず忙しく立ち働いていたころは、ほとんど気づかなかったが、会社を辞めようと考え始めたころ、丸の内のビルの谷間に落ちる大きな夕陽がひどく身に染みて、しばらく立ち尽くしたことがある。Iさんのいうように、夕陽は沈みゆく人生の象徴なのかもしれない。だが、まだまだ大丈夫と内心では思っている。あぶないのは、朝早く目が覚めてしまい、見るつもりもなかった日の出を眺めて、ため息をつくときだろう。
熱伝導
東京の連続真夏日が最長記録を更新して、アテネ・オリンピック開幕である。あれも金これも金とマスコミが捕らぬ狸のゴールド・ラッシュをあおり、女子サッカーが予選第一戦を勝っただけで優勝したような大騒ぎ。熱さはつのる一方だ。
熱しやすく醒めやすいのが日本人といわれる。科学的にいえば熱伝導率が大きいわけだ。村社会の日本では人と人との結びつきが強く、隣組や井戸端会議で情報も瞬時に伝わった。何かあればワッと盛り上がった理屈だが、今どきの青壮年は人間関係がクールだし、電車でも隣の人とくっつくのを嫌う。とうぜん熱しにくくなったと思ったら、とんでもない。ニッポン、ニッポンと、まるでかつての翼賛体制である。
肉体や肉声でなく、彼らはインターネットや携帯電話を通して電波で熱を伝導する。あおるのはテレビなどの電波メディア。肉体伝導派は他人事のように眺めているしかない。
存在証明
散歩の途中にアブラゼミの好む大きな木があって、下のベンチで休んでいるとジージーと蝉時雨に振り籠められて、何も考えられなくなる。ほかの動物同様、蝉が鳴くのも求愛行動だろうが、それにしても疲れも知らずによく鳴き続ける。七年も土の中で暮らし、地上で生きるのは二〜四週間というから、必死なのはわかるが。
種類によって鳴く時間が違うそうで、クマゼミが六時〜九時半、ヒグラシが五 時半〜六時、十四時〜十六時半の二回なのに比べ、アブラゼミは八時〜十八時、 ニイニイゼミは四時〜十八時と、日のある間は鳴き続けるという。
じっと聞いているうちに、「俺はここだ。ここにいるぞ」と懸命に訴えている ような気がしてきて、久しぶりに一句浮かんだ。
百千の蝉存在証明 (アリバイ) を叫ぶごと
HP管理人。梁塵社編集長。「亭主のつぶやき」はHP「風鶴山房」の「孤腎書屋」で不定期に掲載していたコラム。今回、新規開店の「梁塵社annex『コジンクン』」に移動して、引き続き不定期に随時更新していく予定。









