1975年の巻

三月下旬から「愛・地球博」の愛称をもつ愛知万博が開かれている。国内で開催される万博は一九七〇年の大阪万博から数えて、三十五年間で五回目。なかには一九七五年、ベトナム戦争終結直後に開かれた沖縄海洋博のように、人出も予想を下回り地元経済を混乱させて終わったケースもあった。

万博(万国博覧会)の最初は一八五一年のロンドン万博だという。日本からは明治維新直前、一八六七年のパリ万博に徳川幕府、薩摩・佐賀藩が初めて出展、日本政府としては一八七三年のウィーン万博に初参加している。第一次大戦後は現在の形式のようにテーマを持って開催されるようになり、一九二八(昭和三)年には国際博覧会条約が成立、以後この条約に従って開催されている。

日本国内での万博開催は一九四〇(昭和一五)年、紀元二六〇〇年に当時の湾岸エリア、東京・月島と横浜を会場に開く予定だったが、第二次世界大戦の勃発で中止になった。この年、築地と月島の間に架けられた勝鬨橋は、万博開催のために計画されたという。

実際に国内で開かれた最初の万博は、それから三十年後、「人類の進歩と調和」をテーマに掲げた一九七〇(昭和四五)年の大阪万博となる。日本初であり、高度成長期とあって七十七カ国、四国際機関が参加、入場者六千四百二十二万人の大盛況だった。このあと七五年沖縄海洋博(「海―その望ましい未来」三百四十九万人)、八五年筑波科学博(「人間・住居・環境と科学技術」二千三十三万人)、九〇年大阪花の万博(「自然と人間との共生」二千三百十二万人)と、五〜十年おきに開かれ、今回の愛・地球博(「自然の叡智」)は十五年ぶりの開催になる。

過去四回の万博の中で、入場者数が桁違いに少ないのが、沖縄海洋博。本土から離れた島だからやむを得ぬとはいえ、当初予想をも百万人も下回る結果に終わった。

 沖縄はこの三年前の一九七二年に念願の本土復帰を果たしたばかりだった。復帰を記念し、世界初の海洋に関する国際博覧会をとの意気込みで、総額四千億円ともいわれる投資が行われた。会場は本島北部・本部半島の一〇〇㌶に及ぶ広大なエリアで、海上にはシンボルとなる政府出展の人工海上都市アクアポリスが浮かべられた。

会期は七五年七月から翌七六年一月までの百八十三日間。開幕二カ月半前の四月末、南ベトナム政権が崩壊、解放戦線軍がサイゴンの大統領官邸に無血入城し、十六年にわたったベトナム戦争が終わっている。

沖縄は戦後長くアメリカの施政権下にあり、ベトナム戦争とも深くかかわってきた。一九六五年、米軍機B52が沖縄からベトナム爆撃に飛び立ちはじめると、当時の琉球政府立法院はベトナム出撃と沖縄を戦争に巻き込む一切の行動を取り止めるよう決議、県内では復帰運動の高揚と同時にベトナム戦争反対運動も広がった。その一方で、ベトナム景気に湧く基地周辺の町では、米兵相手に沖縄の若者がハードロックやR&Bを演奏。ジョージ紫率いる「紫」や「コンディション・グリーン」といったバンドが活躍し、オキナワン・ロックが誕生している。

それだけに〝ベトナム戦後〟最初の国際的な祭典に、沖縄の人たちが寄せる思いは大きく、かつ複雑だった。本土マスコミも多くの取材陣を送り込んだが、皮肉なことに期間中最大のニュースは、開会式出席のため沖縄を訪れた皇太子(現天皇)が、ひめゆりの塔の前に潜んでいた過激派に火焔瓶を投げられた事件だった。本土の人々も復帰間もない沖縄に対する知識も乏しく関心も低く、客足は伸びないままだった。

それにこの年は、ベトナム戦争の終結に加え、五月の英エリザベス女王来日、十月の天皇皇后両陛下訪米など国際交流も盛んで、十一月には仏ランブイエで初めての主要国首脳会議(サミット)が開かれるなど、世界は大きく揺れ動いていた。加えて、前年から連続企業爆破事件を起こしていた東アジア反日武装戦線の逮捕(五月)、日本赤軍によるクアラルンプールの米、スウェーデン両大使館占拠(八月)など、過激派の引き起こす事件も後を絶たなかった。

地元では経済振興の足がかりにとの期待が大きかったが、大規模な建設事業や観光事業は本土企業が請け負い、地元企業は下請けに甘んずるしかなかった。開幕直後から企業の倒産が相次ぎ、失業者が増大、県民は物価高騰に泣かされることになった。結局、地元沖縄にとってのメリットは高速道路などのインフラ整備と、本土に頼らず独自の振興策を進めねばという、失敗から学んだ教訓だけだったようだ。

万博閉会後、本部半島の会場跡地は国立公園になり、シンボルだったアクアポリスも目玉施設として観光客を集めた。アクアポリスは未来の海上都市の姿を示すものとして、当時の先端技術を結集、総工費百二十億円強で建設された半潜水型浮遊式構造物だ。ところがその後、集客力は落ちる一方、九三年には閉鎖して那覇市沖に移し、海上テーマパークとして再生を図る計画だったが、台湾の投資グループとの交渉が失敗。結局、米船舶会社に千四百万円で売却され、二〇〇〇年一〇月、一週間がかりで上海に曳航され、スクラップとして処分された。

ベトナム戦争の終結、そして沖縄海洋博から三十年。沖縄はようやく魅力的な観光地として知れ渡り、沖縄出身の歌手や泡盛、ゴーヤー、ウコンなどが本土の人気を呼んでいる。一方、ベトナムでの失敗に懲りず、アメリカはイラクを攻撃し戦後処理に手間取り、日本は自衛隊を派遣して支援の姿勢を見せている。

そんななか、東京と大阪の狭間でパッとしなかった名古屋で開かれている万博は、果たしてどんな結果を残すか。「愛・地球博」の呼び名が愛知PRの単なる語呂合わせで終わらなければいいが。

(月刊「ビジネス・インテリジェンス」誌2005年5月号から転載)

石田修大(いしだ・しゅうだい): エッセイスト

東京生まれ。「梁塵社」編集長、「言葉の工房」主宰。元日経文化部長、論説委員。「よこっとび20世紀」は現在、月刊誌「ビジネス・インテリジェンス」で連載中。連載から2ヶ月遅れで、このHPに転載していく。

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